咬傷



「……どういうことですか?」
 丁寧な物言いながらも、不信を顕わにする彼はエキゾチックな銀灰色の眼差しを曇らせた。
 褐色の肌に銀糸の髪が映える、WGP優勝候補と謳われるドイツ・アイゼンヴォルフの実力者、エーリッヒがそう訊き返すのを、同じくドイツのレーサー、シュミットが不機嫌な顔で受け止めた。
「…本当ですか、それは」
「ああ。俺もアメリカの連中が話してるのを偶然耳にしただけだからな。確証は無いが」
「……しかし…どうしてまた……」
「あのブレットに限って考えられない、か?」
「ええ、何故レースの出場停止などという話が出てるのでしょうか…」
 特に、レース中に悪質な行反則行為を行ったわけでもなく、国を代表するレーサーとして誇り高い走りで魅せる優秀な彼が、何を以てしてそのような不穏な事になっているのか、奇妙でならない。
 それは、レースにおける最高の相棒にて、私生活では最高の恋人という目の前の少年とて同じようで、綺麗な柳眉を寄せて何事かを考え込んでいる。
 何かにつけてアメリカ・NAアストロレンジャーズのチームリーダーブレットを気に掛ける恋人に、微かに胸が疼くのを感じつつ、それでも感情を押し殺すこでエーリッヒはそのことを口にすることはない。
 と、すっくと、シュミットが立ち上がり、部屋の入り口へと向かった。
 その唐突な行動に目を丸くして、エーリッヒは意図を尋ねた。
「どうしたんです、シュミット」
「会いに行ってくる」
「って…まさか、ブレットにですか?」
「ああ。わからないなら訊けばいい。ここで考えても仕方がない事だ」
 ――…まるで、竹を割ったような潔さ…などと、感心している場合ではなくて。
「ちょっ…、シュミット待って下さいっ!
 流石にそれは…プライバシーの問題かもしれませんし。第一、我々対戦チームが気安く相手チームのリーダーと会うなんて……」
「知るか」
 にべもなく言い捨てて、ご無体な恋人はさっさと扉の向こうに消えてしまう。
「知るかって…、シュミットッ! 待って下さいッ!」
 慌てて追いかけるエーリッヒ。
 持って生まれた性分か常識家であるだけに、個性的なメンバーが多いグランプリレーサーの中において、かなりの苦労人のエーリッヒ。
 相棒兼恋人のシュミットの性格が、見た目のクールさに比べて結構破綻している事も相まって、彼の苦労は推してはかるべし。
 今回も、恋人同士の甘い語らいの一時を失い、愛しい人の我が儘にな無茶につき合う羽目になるのだった。

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「シュミットッ、待って下さい。シュミット!」
 ?
 耳馴染んだ声に、聞き慣れた台詞、名前。
 NAアストロレンジャーズの、赤毛とナンパな口調が印象的な少年がそれを聞き咎めて、寄宿舎の通路で立ち止まった。
 大浴場帰りなので、体が熱を持っている。洒落で買った日本の民族衣装浴衣とやらを着て。その前合わせに向かい、これまたセットで買い合わせたうちわをぱたぱた扇いで声の方向に視線を遣る。
 日本代表のTRFビクトリーズとはまた違った意味で因縁浅からぬ対戦相手だけに、何事かという興味が自然に湧いてくる。
 ………まぁ、先を行くのがシュミットで、諫める口調で後を追いかけるのがエーリッヒだという構図は、最早珍しいものでも何でもないが。
「シュミット、本当に行くつもりですかッ?」
「ああ、さっきからそう言っているだろう。お前も大概しつこいぞ」
「ッ! で、ですがっ!」
 何を揉めているかは知らないが、相変わらず恋人に大して容赦がないというか。ただの鈍感というか。
 あの上流気質の世間知らずに本気になれば、苦労するのは目に見えているのに、それでもあんな朴念仁に惚れ込んでしまったエーリッヒには哀れみすら感じてしまう。
 ……結局の所は両想いなので、大きなお世話なのだろが。
(夫婦喧嘩は犬も喰わないって…日本じゃ確かそう言うんだったよな?)
 野次馬根性が騒ぐが、痴話喧嘩に巻き込まれるのは御免被りたいところだ。ここは退散を決め込んだ方が良さそうだと、一旦は止めた足を再び先へと伸ばす、が――…。
「エッジ、丁度言い訊きたいことがあった」
(うっわ、……サイアク…)
 ドイツの双璧に捕まった瞬間、エッジの胸に『さっさと逃げてりゃよかった』という後悔の嵐が渦巻いたが、表面上平静を装って、
「…なんだよ? てか、独逸チームのbQが二人して何やってるわけ?」
 今更逃げ出すわけにもいかず、エッジは振り返って用件を聞き返した。
「ブレットは何処だ?」
「…? リーダーに何か用なのか? 今、監督に呼ばれてるから暫く無理だぜ」
「……監督に? そうか…」
 ならば仕方がないとばかりに口を閉ざすシュミットの後ろで、エーリッヒは胸を撫で下ろした。
 が。
「なら、お前でもいい。訊きたいことがある」
 との、恋人の一言で寿命が縮まった。
「?」
 何事かと、鳩が豆鉄砲喰らったような顔でいるエッジに、シュミットは続ける。
「ブレットのレース出じょうて……ぃひ……むぐっ?……」
「なっ、なんでもありませんっ。さっ、帰りましょう! シュミット!」
「むぐっ、むぐぐぐっ!!」
 片手でシュミットの抗議も抵抗も封じ、エーリッヒはいそいそとその場を離れようとする。無論、無茶な事ばかりする恋人も一緒に連れていこうとするのだが。
「……リーダーのこったろ。
 何処から聞き出したか知らないけど、早耳だなー…。ここじゃ何だし、場所変えようぜ」
 という、エッジの一言で、シュミットとエーリッヒの動きがぴたりっ、と、止まった。

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 もう夕餉の時間も過ぎ、夜訓練の連中もひいた外の練習場で、浴衣姿のエッジと普段着を洒落たスタイルに着こなした独逸のメンバー二人が声を潜めていた。
「で、シュミット。さっき言いかけたのって、あれだろ。リーダーの出場停止の件」
「本当なのか?」
「んー…、本当というか何というか」
 言い淀むエッジに、シュミットは詰め寄った。
「はっきりしろ、どうなんだ」
「っと、そう尖るなよ。俺等だってハッキリきいてるわけじゃないしさ。
 オフィシャルから宣告されたわけでもないし、ただ、最悪そういう事態になるかもしれないって監督からきかされただけだから。
 リーダーに訊いてみないと、そこら辺はわかんねーよ」
 本当に詳しい事は何一つ知らされていないのだろう、こっちが訊きたいくらいだと両手を上げてみせる姿に嘘は感じられなかった。
「……冗談じゃないっ、何やらかしたのだあいつは」
 綺麗に整った貌に苛立ちを滲ませて呟くシュミットに、エーリッヒは遠慮がちに声を掛けた。
「もう、宜しいでしょう?
 そうそう立ち入った事に踏みるべきではありませんし、もう帰りましょう。シュミット」
「いーやっ、何が何でも事情をあいつに問いただすッ!」
「……シュミット」
 困り果ててエッジに救いを求めるように視線を流すエーリッヒ。しかし、赤毛のレーサーは面倒事に関わるのは御免だとばかりに首を横にするばかり。
「エッジ、あいつに伝えておけ。監督との話が終わったら、俺の部屋に来いとな!」
「……別にいいけど、何時になるかわかんないぜ?」
「構わない」
 暴走する恋人に、既に常識人なエーリッヒは頭を抱えて肩を落としてしまっている。もはや、何を言っても無駄なのだ。こうなってしまったシュミットを止められる唯一の人物といえば、独逸チームのリーダーたる天才少年、ミハエルだけなのだが。
 今この場に呼ぶ事が可能なわけでもなく、何より、ミハエルもこの事態を面白がるだろう事は目に見えている。
「じゃ、一応伝えとくな。もういいだろ、俺はそろそろ……」
「バカか、テメェはっ!! だから言っただろ、俺は!!」

 ―――…!

 突然、三人の耳に届いた、聞き覚えのある怒鳴り声。何事かと互いに目配せし合うと、こそこそと声の方へ移動する。
(今の……なんだ?)
(何かもめ事でしょうか…)
(あー…、なんか俺、ヤな予感するんだけど…)
 エッジだけは何故か腰が引けているのだが、音が真面目なドイツレーサー達は騒ぎを確かめようという真摯な姿勢をみせた。
 三人がこっそりとその場へ近づくと、エーリッヒとシュミットには『意外』な、エッジにとっては『予想通り』の人物がそこに居たのだ。
 一人は、先程までシュミットが躍起になって捜していた相手、ブレット・アスティア。それに――…、
(………カルロ…、セレーニ…)
(悪名高いイタリアチームのリーダーじゃないのか、ブレットのヤツ、何をやっているのだ?)
(………いや……、その、………多分、ここから先は見ない方がいいと…)
 しどろもどろになるエッジに、二人は眉を潜めた。
(何かあるのですか、エッジ)
(…あー…、あるというか何というか……)
 煮え切らない態度に、クールに見えてその実、結構な激情家な、薄紫瞳の独逸レーサーが吐く言葉に刺を交える。
(何なのだ、ハッキリしろ。俺達に見られると問題があるのか?)
(……マズイというか、何というか…)
 そもそも他人の話に盗み聞きしている事自体好ましいとは言えないだろうが、現状、話の論点はそこには無かった。 ((??))
 シュミットとエーリッヒが訳が分からないという表情でいるが、それ以上エッジには説明しようがない上に、余り、したくもない。
(リーダーとカルロが…、そういう仲、なんてねぁ…)
 決して恋仲というわけではないが、無理矢理成立させた契約のようなものでも、一応、恋人は恋人だ。
 事情を知らぬ者にとっては一触即発の口論も、諸事情を知るエッジにとってはただの痴話喧嘩にしか聞こえないから不思議だ。
 兎にも角にも、人目を避けるようにして林の中で、ブレッドとカルロはいた。
 今にも掴みかからん勢いで怒る銀髪も月夜によく映える痩躯の少年とは対照的に、こんな暗闇でもチームのトレードマークにもなっているゴーグルをかけたまま、ブレットは不敵に笑んでいた。
「なんだ、心配してくれてるのか?」
「沸いてンじゃねーよッ!! 誰が、敵の事なんざ気遣うかッ!!」
「つれないな、恋人に向かって」
「〜〜〜〜っ、だ・れ・がッ、誰の恋人だッ!! バカぬかしてンじゃねェ!!」
「…可愛いな、照れてるのか」
 うっとりするような微笑みを浮かべてブレットは囁く。
 見事なまでの会話のズレは、修正不可能だ。
「っ〜〜〜、て・め・ぇはッ! 一遍、死にさらせッ!!」
 当然のように、カルロは肩を怒らせ殴りかかるが、それをまるで恋人の癇癪をいなすかのようにブレットは片手で受け止め、足を掛けてバランスを崩させると、己の胸の中に抱き留める。
「なっ、ばッ、放せッ!! このッ…!」
「跳ねっ返りも可愛いけどな、…それじゃ…キスも出来ないだろ……?」
「〜〜〜っ、や、めっ……」
 徐々に二人の間隔が狭まる。
 互いの吐息が掛かる、そんな距離。
 ちなみに、アイゼンヴォルフのレーサー二人は完全に固まってしまっていて、エッジは彼らの横ですっかり頭を抱えている。
 少し前に二人の仲を知る事となったエッジは、それからブレットに、これ幸いとばかりに協力を要請されており、こういった状況を目撃することなど、最早日常茶飯事なのだが――…、鉄の狼の二人の衝撃の程は、想像に難くない。
「んっ……、ンぅ…」
 おまけに、年相応に初々しい付き合いをすればまだ良いものを、それはどう控え目に見ても、思いっきりオトナのキス。
 必至で抵抗を試みるカルロを軽々と抑え込み、ブレットは散々に恋人の熱い口腔をねぶっていた。
 ――…その、余りの光景に。
 アイゼンヴォルフの双璧――シュミットの中で、プチッと何かが切れた。
「〜〜〜ブレットッーーーーー!!!」
 叫び声と同時に茂みから勢いつけて立ち上がる独逸の鉄の狼。その下の茂みでは、マジか!? と、エッジが息を呑み、エーリッヒは顔色を失った。
 巧みなキスに理性を奪われていたカルロもこれには驚き、ブレットを渾身の力で突き飛ばして、口唇を手の甲で拭いながら、濡れた蒼で突然の乱入者を睨み付ける。
「…っと、……シュミット…? なんだ、どうかしたのか?」
 流石というべきか、ブレットだけは余裕綽々で、シュミットに事も無げに声を掛ける。
「なんだ、どうかしたのか? っじゃ、ないだろうっ!?
 お前は何をやってるのだっ、俺はお前がWGPのレーサー資格を剥奪されると聞いて捜していれば、こんな場所で……ッ!」
「ああ。耳が早いな、もう伝わってるのか。
 出場停止の件についてはなんとかするさ。心配いらない。悪かったな気を使わせたようだ」
「……なんとかするって…お前、何をやったんだ?」
 もっと落胆しているかと思えば、此方が拍子抜けするほどに何時も通りなブレットの姿に、シュミットは毒気を抜かれてしまう。
「大したことじゃないさ、ただ、ちょっとした誤解があったみたいでな」
「誤解…? まぁいい、何にしろレースには出られるのだな?」
「ああ、借りたものはキッチリ返さないとな。寝覚めが悪いだろう?」
「…フン、貸しが増えるだけじゃないのか」
「言ってくれるな。倍にして返してやるさ、楽しみにしていろ」
「ああ、そうさせてもらう。
 ――って、それもあるがそうじゃないッ! お前、そいつとどういう関係なんだッ!?」
 言って、びしっ、とカルロを指さすシュミットだ。
 その下の茂みでは、今更顔を出すわけにもいかず、かといって恋人の暴走を放っておく訳にもいかず、と。エーリッヒが一人苦悩していたりする。
 ちなみに、エッジはとうの昔に逃げ出していた。これ以上、厄介事に首をツッこみたくないのだろう。賢明な選択だ。
「どういうって…恋人だが」
「違うッ!! 断じて違う!! ふざけたこと言ッてんじゃねぇ!!」
 あっさり、さも当然とばかりに言ってのけるブレットと、それを速攻否定するカルロ。
 だが、シュミットにはブレッドの言葉しか届いてはいなかった。
「………………恋人、……。
 他人ひとの恋路に無粋な真似はしたくないが、そいつはロッソストラーダのチームリーダーだ。
 レーサーとしての誇りの一片も持ち合わせぬような輩に己を見失うとは…見損なったぞ。ブレット!」
「シュミット…!」
 その、余りの言い様に黙っていられなくなったエーリッヒが、思わず立ち上がってシュミットを諫めた。
「…エーリッヒ。お前までいたのか」
「もっ、申し訳ありませんっ!」
 呆れたように溜息をつかれて己の立場を自覚すると、エーリッヒは途端に小さくなった。
「決して、このような振る舞いをするつもりではなかったのですが……っ」
「エーリッヒ、頭を下げる必要など無い」
 しかし、シュミットは何処までも尊大だ。一篇足りとて自身に恥じるものはないと、胸を張る姿は、いっそ清々しい。
「シュミット…。兎に角、私たちはこれで失礼しましょう?」
「いいや! 俺はこのまま帰るわけにはいかない。お前一人で先に帰れ、エーリッヒ。
 俺はどうあっても、このウツケの目を覚まさねばならん!」
「シュミット! その話なら後からでも問題ないはずです。
 礼を欠いているのは此方です。一度、帰りましょう」
「煩いッ! 黙っていろ!!」
「シュミット…!」
「くどい! 俺の邪魔をするな、エーリッヒ!」
「………ッ、シュミッ…!」
「黙れ!!」
「……」
 説得に耳を貸そうともしない唯我独尊な恋人を連れて帰る方法は、残念ながらひとつだけだ。
 普段、事の主導権はシュミットあり、エーリッヒから仕掛けるのは珍しい。それは、単純に銀髪の少年が控え目な性格であるとか、抗いがたい身分の差が存在しているだとか、恋し過ぎて愛する事に臆病であるとか、諸々の可愛らしい理由からであるのだが。
   強引に重ねられた口唇が、消え入りたい程の羞恥と拒絶の恐怖に震えているのを感じ取り、高潔の紫瞳は――…、宥めるように応じた。
 呆然とするカルロと、口端を微かに吊り上げて愉しむブレットの前で、独逸の狼たちは互いに貪り合う。
 興が乗ったらしく、何度か深いそれを交わして、シュミットは珍しくも大胆な行動に出た愛しい恋人の全身を指先で辿り、熱を煽りながらその場を後にした。

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「…やれやれ、まさかシュミット達に見られてたなんてな」
 どうしたものかと視線を寄越してくる、まるで他人事な様子のブレッドに、我に返ったカルロは血を昇らせた。
「誰が恋人だっ、てめェ!! いい加減なこと言いやがって!!」
 あの様子では確実に『恋人』だというブレットの言葉を信じ込んでしまったのだろう。アイゼンヴォルフの双璧と謳われる彼らは思慮深く、決して軽々しく他者の秘密を外へ漏らすような真似はするまいが、それでも、カルロにとってはそう思われているだけでも屈辱的だった。それに、何より、――の現場を見られたかと思うと……。
「…随分往生際が悪いな、カルロ。いい加減諦めたらどうだ?」
「諦められるかッ! 勝手に人を恋人扱いしてンじゃねーよッ!!」
「……俺の恋人は不服か?」
「当たり前だッ!!!」
「………そうか…」
 すると、急にブレッドは顔を曇らせた。
 それまでの自信家な態度を一変させ、ふいっ、とカルロから視線を逸らせてしまう。
「………?」
 突然の事に不審そうにするカルロは、柳眉を寄せて、戸惑った。
「……お前がそこまで言うのなら仕方がないな…。………O.K。もう二度と、恋人だなんて言わない。それでいいか?」
「……あ、あぁ…。……わかれば………いい」
 ブレットの余りの変わり様に面食らって、銀の鬣の麗しい荒馬は、普段とはかけ離れ人の良い対応をした。通常ならここで、今までの意趣返しとばかりに拳の一発や二発出てもおかしくはないのだが。
「……れより、てめェ。例の件、どうするつもりだよ。本気で何とか出来ンのか?」
「NO Progrem , 抜かりはない。
 蛇の道は蛇、さ」
「……フン、エリート坊ちゃんが知った口を利くじゃねーか」
 面白がるようにカルロは口端に笑みを浮かべた。
 それは、嘲りと侮蔑を含んだ、成る程、カルロという人物が戴くに相応しい微笑。
 まるで、翳り始めた月のような美しさに眩んで、ブレットは思わず痩せた体を、木の幹に押しつけて、いた。

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 コンコンッ、と。
 規則正しいノックの音に、エッジは手元の雑誌から視線も上げずに生返事を返した。
「へいへ〜い、っと。開いてるぜ、勝手に入ってくれば?」
「邪魔するぜ、エッジ」
「! リーダー?」
 意外な人物の登場に、エッジは目を丸くした。
 妙ないざこざに巻き込まれぬように早々先程の場から退散してきたのに、更に何事かの問題に巻き込まれるのかと顔が引きつる。
「……どうかしたのか、こんな時間に」
「ああ。ちょっとな、救急キットを貸してもらいたくて」
「…どっか怪我でもしたのか――って、」
 愚問だった。
 先刻のやりとり、その光景を思い起こせば、……。
(まーた、カルロにちょっかい掛けて怒らせたな。リーダー)
 という答えに行き着く。
 無論、言わぬが花を通すが。
「で、何処をどーしたんだよ、リーダー? 手当くらいしてやるから…」
 そこで、エッジは言葉を失った。
 あんぐりと大口を開けて間抜け面してみせるチームメイトに、ブレットは苦笑する。
「ちょっと油断した、かな」
「……いや、……ちょっとというか。そーれは…大丈夫なのか? リーダー」
「ああ、見た目はこんなだが、大した事はない」
 そう返すブレットの首筋には、ハッキリと噛痕が残っていた。しかも、じわじわと血が滲んでいる所を見ると、余程渾身の力を込めて噛まれたようだ。一部、皮膚が食い破られている。
「まぁ、とりあえず…手当しないとな、それ。そのまんまってわけにはいかないだろ。ほら、こっち来て座る。早くっ」
 何時までも呆けていても仕方がない。エッジは我に返って、救急キットを脇に抱えた格好でブレッドを手元へ呼び寄せた。
「しっかし……、なぁ。
 野暮な事聞くけど、何やったんだよ。リーダー」
 まじまじと傷口を見分しながら、消毒薬を片手に聞いてくるエッジ。人としての道徳心が好奇心に負けたらしい。恐いモノ見たさ、もとい、恐いモノ聞きたさか。
 すると、エリート中のエリート集団NAアストロレンジャーズを纏め上げる屈指のレーサーたる金髪碧眼の王者は、事も無げに一言。
「ん? ああ、青姦」
「………」
 手にしていた消毒の瓶を傾けたままの姿勢で、びしぃっ、と固まるエッジ。その後、容赦なく、消毒薬をブレットの傷口にひっくり返した。
「〜〜〜うぁっ…! エッジッ、何するんだっ?」
 当然ながら、酷く傷にしみ抗議の声を上げるリーダーに、しかし、エッジは引かない。
「………それは、こっちの台詞だぜッ!!
 リーダーッ、幾らなんでも、あ、あ、あ、青姦ってッ!!」
「…慌てるなよ。やろうとしたけど、逃げられた。未遂だ」
「……………未遂、かよ」
 へなへなと、その場にしゃがみ込んでしまうエッジに、ブレッドは不思議そうな顔だ。
「別にお前が慌てる事じゃないだろう?」
「……そーだけど。リーダー頼むからもっと手順踏もうぜ、いきなりそれはないだろ」
「甘いな、エッジ。LoveGameに刺激は必要不可欠な要素だぜ」
「…………」
 何故だかやたらと偉そうにうそぶくリーダーに対して、そもそも、カルロの方には恋人関係は成立していないだとか、刺激の前に平穏が絶対的に欠如しているだとか、言いたいことは山盛りなのだが。
 ……藪をつついて蛇を出したくはないので、沈黙する。
「とにかく、続きするから…」
「ああ、悪いな」
 今後も、WGPレース開催中ずっと、このドタバタ劇の巻き添えを食らうのかとうんざりしながらも。チームメイトとして、友達ダチ として、見ぬ振りをするわけにもいかず。いつもの慣れた手つきで、恋に狂い咲き中のどーしよーもないチームリーダーに手当を施すエッジだった。

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エッジは巻き込まれ型の苦労人
もうオカン的な立場にいればいいと思う
エーリッヒはシュミットに何処までも従順だけど
時々ヤキモチ焼いてムチャな行動に出ると萌える